2011.12.09

「沈黙の春を生きて」須坂市出身・坂田雅子監督インタビュー

お知らせ

12月9日まで長野ロキシーで上映の『沈黙の春を生きて』の坂田雅子監督に、先日インタビュー取材をさせていただきました。

本当は小誌『チャンネルvol.4』に掲載しようと思っていたのですが、全文の掲載が難しく、また発行が上映終了後になってしまうため、こちらでご紹介させていただきます。

 

須坂市出身の坂田雅子監督は、2003年に米国人フォトグラファーの夫・グレッグ・デイビスさんが肝臓がんで亡くし、その原因が、’60年代のベトナム戦争時、米軍が散布した枯葉剤(猛毒のダイオキシン)ではないかと疑ったことから、映画の撮影に初挑戦し、ドキュメンタリー映画『花はどこへいった』を制作しました。枯れ葉剤散布の事実を追いかけ、被害を受けた人々とその家族の姿を描いた作品です。

 

本作は、この『花はどこへいった』の続編で、アメリカにおいて、障害を持って生まれたベトナム戦争帰還兵の子どもたちのインタビューから枯葉剤の傷痕を炙り出した作品。アメリカ軍は、ベトナム戦争において、1961年から1975年まで枯葉剤散布作戦を続けました。映画では、戦争当時、アメリカ政府は枯葉剤を「人体に影響がなく、土壌も1年で回復する」と説明していたことなど驚きの事実を露わにする一方、片足と指が欠損して生まれた帰還兵の娘、ヘザー・A・モリス・バウザー氏がベトナム各地を訪問し、困難のなかで必死に生きるベトナム人の家族らの言葉を丁寧にすくい取ります。化学物質の影響という、見えない敵と戦い続ける人たちの苦労が、観る者の胸に強く訴えかける作品です。

 

<あらすじ>

1962年にアメリカの作家兼海洋学者のレイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』は、当時隆盛を誇った農薬の危険性を予言し、DDT禁止のきっかけを作った。だが同じ頃、ベトナム戦争真っ最中のベトナムでは、ジャングルに潜むゲリラを殲滅するため、米軍による枯葉剤散布が始まっていた。農薬と同じ成分からなる枯葉剤について、アメリカ政府は、「人体には影響なく、土壌も1年で回復する」と説明し、400万人ものベトナムの人びとにも直接散布された。だが実際は、そのなかに人体や自然環境に多大な影響を及ぼす猛毒ダイオキシンが含まれていた。戦後35年を経たいまも続くその被害。当時ベトナムに駐留していた米軍兵士も枯葉剤を浴び、帰還兵の多くがいまだに苦しんでいる。そして、被害は彼らだけでなく、子や孫の世代にまで及んでいた。帰還兵の娘、ヘザーは片足と指が欠損して生まれた。父の戦場だったベトナムを訪ねたヘザーは、両国の被害者が繋がっていくことの大切さに気づく。本作は、枯葉剤の刻印を背負ったベトナム・アメリカ、双方の子供たちの困難と勇気を描き、レイチェル・カーソンの予言的言葉に再び耳を傾けることの大切さを訴える。

(goo映画解説より)

 

<「沈黙の春」とは>

今から50年前の1962年、レイチェル・カーソンは、「化学物質は放射能と同じように不吉な物質で、世界のあり方、そして生命そのものを変えてしまいます。今のうちに化学薬品を規制しなければ、大きな災害を引き起こすことになります。(「沈黙の春」より)と警告し、これによって、DDTが規制されるきっかけとなった。本映画の冒頭、レイチェル・カーソンの本人映像とともに、『沈黙の春』より抜粋された言葉が登場する。

 

<坂田雅子監督インタビュー>

ー本作は、東日本大震災のときに編集をされたそうですが、震災後、心境の変化や作品の変化はありましたか?

 

坂田雅子監督(以下敬称略):震災が起こったときに、映画はほとんど出来上がっていたので、震災によって内容を変えたと言うことはないです。ただ、震災によって私のなかで映画の見方が変わった点といえば、それまで、レイチェル・カーソンの引用のなかに枯れ葉剤に対することは何か言っていないか、何とかつながるものはないかとずっと探していたんですね。それで、放射能にはあまり気を配っていなかったんです。でも映画が出来上がってからレイチェル・カーソン協会の方のお話をうかがうと、レイチェル・カーソン自身も、当時から放射能の脅威と言うものにとても心配していたそうなんです。考えてみると、確かに『沈黙の春』を執筆していた、’58年~’62年当時は、冷戦のまっただ中で、原水爆が開発され、テストされ、世界中が放射能の脅威に震撼している時期でした。彼女の頭の中では放射能が大きな場所を占めていたんです。今回、偶然にも、原発事故が日本で起こり、彼女の言葉がまた改めて重みを持っていたのだと感じました。そういう放射能という観点から、『沈黙の春』をもう一度読み直してみたいなと思っています。

 

ー逆に、前作から変わらない点はありますか?

 

坂田:変わらなかったことはなくて、前作をを作った時からどんどん変化していると感じています。前作は、夫が亡くなったことがきっかけで作ったんですが、当時は世の中とのつながりが全部なくなった気がしていました。社会とのつながりが切れた私はどうしたらいいだろう、という大きな総スカンを抱えているなかから作品を作ったんです。でも、それによって新しい人と人とのつながりが生まれて、そのつながりの大切さを実感するようになって来ました。そういった意味では、どんどん変わって来ていることの方が多いと感じています。

 

夫が生きていた頃は、週末どこに行こう、レストランはどこにしよう、という目前のことをことを考えていたのに、それが急に途絶えてしまった。目前の生活ではなく、より大きなものに関心を払わざるをえなくなってきました。のほほんと生活していた私に、急に襲いかかって来た枯れ葉剤の悲劇。それまで他人事だと思っていた、さまざまな世の中の在り方が、他人事じゃないんだ、いつ自分の身に降り掛かって来るかわからないんだ、ということに気付きました。

 

今回の原発事故に関しても、今までは他人事だと思っていた人が多かったんじゃないでしょうか。政府や東電が面倒を見てくれる、という信頼は崩れてしまっていて、問題がいつ自分の身に降り掛かるかわからないと気付いたと思うんです。

でも、気付いたことで、自分たちの意見を反映させておかなきゃいけないということも気付いたのではないでしょうか。

そう言う意味でも、前作よりは変わって来ています。

 

ー作品から多くの家族愛、親子愛を感じました。

 

坂田:私は子どもは生まなかったんです。後悔しているところもあるし、生まなくてよかったと思うところもありますが、40歳くらいの時に、最後のチャンスだと思って、生みたいと思ったんです。そしたら、私の母から「無理をして自分の子どもにこだわることはない」と言われて、それもそうだな、と。自分の子どもだから大切っていうのではなく、新しく生まれて来る生命、命のつながりを継承していくというのが大切だと思っています。ただ、自分の子どもを作らなかったゆえに、慈しみの気持ちを経験できなかったんじゃないかと、それは後悔するところでもあります。

 

ベトナムの人たちは本当に家族愛、親子愛が深いんですね。親子の愛情というのは、私に欠けるものだから、より私に訴えるものがあって、自然と作品化していたのかも知れません。撮影を通じて、親子っていいものだなとしみじみ思いました。

 

そして、私は、旦那を亡くして、ひとりぼっちだと思っていたので、なんだか羨ましくも思いました。温もりを感じさせる人対人の関係、身近に感じられる人間の存在が羨ましいなと。

 

ーカメラを向けられて人々がリラックスしていたように感じました。それに対して、場作りなどの工夫はありましたか。

 

坂田:工夫するような技量はないのですが、たくさんの人数では取材に行かないように心がけました。だいたい通訳の人とふたりで行きました。たまに倫理委員会や国の関係者、村で面倒を見てくれる人たちが同席することもありましたが、こちらが大人数で行くほど、普段の環境と変わってしまうので、できるだけ少人数で、そして「壁のハエ」のように存在するようにしました。

 

ーインタビュー取材において、何か相手に気を遣うことなどはありましたか。

 

気を遣うということはほとんどないです。一番困るのは言葉がわからないということ。相手がアメリカ人なら、英語を喋るのでよくわかるんですが、言葉がわからないのは本当に歯がゆかったです。通訳もなかなか良い人と出会えなかったりして、とにかく言葉には苦労しました。

それに、アメリカの人たちは、自分の気持ちを上手に話すことができるんですが、ベトナムの人たちは気持ちの表し方が違う。ベトナムの文化もわからないし、言葉もわからない。本当に彼らが思っていることが伝えられているのかがわからなかった。

ただ、ベトナムの人もアメリカの人も、自分たちの気持ちを伝えたい、知って欲しいと思ってるから、一生懸命に語っているというのはわかりました。私がインタビューすることで、一生懸命聞き出すのではなく、彼らの話を聞くこと自体が、彼らの言葉を引き出すのだと感じました。

 

ただ、聞きにくいこと、といえば、劇中でヘザーが、障害のある女性に対して「ボーイフレンドができるか」と聞くシーンがありましたよね。あれは、私は聞きたいと思っても躊躇して聞けなかったことでした。あれは、ヘザーだから聞けたんだと思います。

 

ヘザーは今年の夏に福島に来たんですよ。NHKのETV特集で「枯れ葉剤の傷痕を見つめて」というタイトルで、今回の取材をまとめて1月末に放送した際に、彼女のウェブサイトへのアクセスが日本から一気に増えたそうなんです。この特集の再放送が3月6日にあったんですが、その後もまたすぐに日本からのアクセス数が増えて。その直後に震災が起こって、「私の番組を見て私のウェブサイトへアクセスした人たちはどうなったんだろう、知りたい」と思ったそうで、今年の夏に、ベトナムで行われた、枯れ葉剤50周年のイベントに出席した帰りに、日本に寄ることにしたんです。何と言っていたかすぐには思い出せないのですが……。とにかく惨状にびっくりしていました。

また、それから、福島の親子との交流会にも参加したのですが、放射能と枯れ葉剤の共通点をヘザーも知って、さまざまな意見を交換していました。

 

枯れ葉剤は、化学的な因果関係は証明されていないっていうんですけど、今、アメリカでは帰還兵が病気になった際、その病気が19ある認定項目のリストに入ってれば、枯れ葉剤の影響だと認められます。ただ、それが認められるようになったのは、戦後二十数年過ぎてから。最終的に、化学的に100%証明されるまで待っていたら、本当にたくさんの命が蝕まれてしまう。「火のないところに煙は立たない」ではないけど、疑わしいと思ったらそれは危ないと思っていかないといけないと思っています。

 

日本では「御上が大丈夫だって言ったら、それを信じて、場を大切にしましょう」みたいな考え方がすごく大きいように思うんです。私が今住んでいる群馬県の水上町は、文部科学省の地図によると放射能の値がすごく高いんです。実際に測ってみても高い。でも周りの人は何もやらないんですよね。だから町役場に聞きにいったら「何でそんなこと聞くの? 危険ではない、安全圏内です」の一点張り。そうやって、みんなに言われると、なんとなくそうなのかと思っちゃいますよね。それに、日本人って反抗する気持ちが割とないですよね。目立っちゃいけないというか。

 

でも、枯れ葉剤の問題にしても、原発の問題にしても、犠牲者と言うのは、私たちのために犠牲になったと思うんです。炭坑のカナリヤみたいに。炭坑では、カナリヤを連れて行って、カナリヤが死んだら一酸化炭素が発生している、みたいな検査方法の話があるじゃないですか。枯れ葉剤にしても、福島にしても、犠牲者は私たちのためにカナリヤになったんじゃないかと思うんですよね。彼らの痛みは私たち一部の痛みとして捉えていかなければと考えています。例えば、放射能値が何ミリシーベルト増えると、1万人に1人が癌になる可能性が増えると言うのは、私の身体の中の1万の1が癌になる可能性が増えると言うこと。やっぱり、そう言った面でも、これらは他人事じゃなくて、みんなでシェアしなきゃいけない問題だと思っています。

 

ー今作において苦労した点はありますか。

 

全てが苦労しました。やっぱり撮影をする技術が足りないですから、目の前でどんどん起きているのをカメラで追うのが精一杯なんですね。こういうアングルとかライティングとかと考えてる余裕がない。それがもう少しスムーズに行くといいなと考えています。

 

それと、1作目はスルスルと出て来たことが、自然と作品になったのですが、2作目はどういう風に組んでいったら良いかわからなくて……。

 

1作目に比べて、もっと作為を持って作った作品になりました。

 

どうやったら人に訴えることができる作品になるのか、編集がとても大変でした。特に、同じ素材を遣って、先にETV特集を作ってしまったので、もうこれ以上は、違うものはできないんじゃないかと思ったりもしました。ただ、編集をしてくれたジャン・ユンカーマンさんが見てくれて、「まだまだ違うものができるよ」とおっしゃってくれて。それで一緒に作り始めたのですが、違うもので説得力のあるものを作るために、いろんなエレメントを入れたり外したり順番変えたり……。かなりいろんな人の意見を聞きながら制作しました。

それと、レイチェル・カーソンの話を入れると言うのも、映画の内容とうまい具合に一致するように入れるというのにも、結構苦労しましたね。

 

ー最後に、長野の人にメッセージをお願いします。

 

長野は、もう実家はなくなってしまっているんですが、今も私の心の故郷です。だから、この映画を通じて戻って来る機会ができて、嬉しく思っています。

長野って、保守的な面もあるけれど、いろいろな斬新なアイデアを持った人たちもいる、とても素敵なところだと思うんですね。市民運動もいろいろありますし。なので、映画を見ていただいて、長野から日本を変えていくような声をどんどん発していくことになればいいなと思います。

 

 

『沈黙の春を生きて』2011年、日本、配給:シグロ、上映時間87分

 

<坂田雅子プロフィール>

1948年、長野県須坂市生まれ。京都大学文学部卒業。70年にグレッグ・デイビスと出会い結婚。夫のフォト・ジャーナリストとしての仕事を手伝いつつ、76年から写真通信社インペリアル・プレス勤務、のち社長となる。98年、IPJを設立し社長に就任。2003年、グレッグの死をきっかけに枯葉剤の映画を作ることを決意、アメリカで映画制作を学ぶ。04年から06年、ベトナムと米国で被害者家族、ベトナム帰還兵、科学者らにインタビュー取材、撮影を行なう。2007年、映画『花はどこへいった』を完成させ、2008年、第26回国際環境映画祭の審査員特別賞(Prix Special du Jury)、2009年、第63回毎日映画コンクールのドキュメンタリー映画賞を受賞。2011年、NHKのテレビ番組ETV特集『枯葉剤の傷痕を見つめて』で第48回ギャラクシー賞優秀賞。2011年、ドキュメンタリー映画『沈黙の春を生きて』発表。